2008年4月。
三国制覇戦第一節が開幕します。
すでにこの時、魏の脳筋突撃の威力は各国がおおいに
知るところでした。
広く展開して布陣する蜀や呉に対しての一点突破は、
局地的な数的有利を作り出せるという点で、
戦術として非常に有効なものであり、
数十人、時として百人にも及ぶ人数差を覆し、勝利を収めます。

合戦の前後、許昌の宮廷前で行われる会議では、
毎回、活発な意見交換がなされ、
その中から、新たな突撃の形も生まれます。
従来の、敵城門を目標とした直線的な突撃からは一線を画し、
周回軌道を描きながら敵部隊に突撃をかけ、
再び元の位置に戻るという、
「マラソン」、別名「車掛りの陣」と呼ばれた戦術がそれです。

こうした、突撃のバリエーションを縦横に繰り出し、
制覇戦第一節の4月、
魏は対蜀戦、対呉戦合わせて、
6戦全勝という戦績を打ち立てます。
「脳筋突撃」は、ここに黄金期を迎えたのでした。


しかし、GWを抜けた後の5月11日の1陣、
魏は、孫策軍より、思わぬ苦戦を強いられます。
2陣を魏、3陣を呉が、それぞれ城門破壊で陥落させ、
1陣は双方の援軍を迎えて500人対500人になりました。

戦場は当時、実装されて間もない「渓谷」。
マップ右上の城を開始点とした魏は、
フィールド中央を縦断する川の北方で集合し、
南へ向けての突撃を繰り出す作戦を採ります。
しかしこの時、同じように川の南方に布陣した呉軍に、
魏の脳筋たちはことごとく釣り込まれます。
それは、かねてから不安視されていたマイナススキル、
「逃げる敵を追い出したら止まらない」が発動した瞬間でした。
どこまでも追いかける脳筋に、魏の布陣は縦に大きく伸びます。
その瞬間を、待ち構えた呉軍に撃破され、
残り10分の時点で、4000ポイントものリードを
許しました。

合戦はその後、ようやく全軍の再集合を果たした魏軍が
2方向からの突撃をかけて逆転、
からくも勝利を収めます。

ですが、この時の合戦で魏軍の兵士1人1人が感じた、
脳筋突撃に対する不安感。
それがついに、魏軍から、天の利を遠ざけてしまうのです。


5月17日。
制覇戦開始からこれまで8戦全勝で望んだこの日、
対するは呉軍でした。
許昌で行われた事前会議で、この日の合戦は、
1陣を捨て陣、
2陣を速攻陣、
そして、3陣・河畔を決戦陣に設定しました。
それに合わせて、魏軍の兵士たちは、それぞれの戦場へと
赴きます。

午後10時、開戦。

まず2陣は、当初の予定通り猛烈な進攻を見せ、
魏軍は、開始からわずか9分で敵城門を破壊します。
この時、捨て陣であった1陣では、
呉軍の半数にも満たない魏軍が、決死の防衛戦を展開、
敵の3陣への移動を少しでも遅らせようと、奮闘していました。
この隙に、2陣を早々と陥落させた兵士約300名は、
援軍となって、3陣へと雪崩れ込みます。
開戦から15分、
決戦陣である3陣は、呉軍約300人に対して、
魏軍約460人と、
魏にとって、圧倒的有利な状況となりました。
数に勝る魏軍は、呉軍を容赦なく攻め立てます。
マップのほぼ全域を勢力化に収め、
呉軍の繰り出す城からの突撃は
ことごとく脳筋のえじきとなりました。


勝利は目前かと思われたその時、転機が訪れます。
戦闘開始から32分、
それまで呉軍の猛攻に耐えていた1陣が、
ついに陥落したのです。

3陣、
すでに呉軍の城を包囲していた魏軍の兵士に
決断が迫られました。
まもなく到着するであろう敵の援軍で、
3陣の兵数は500人対500人になる。
このまま攻めきるのか、
それとも、退いてポイント差を守りきるのか。

魏軍に、決断が下ります。
「橋まで退いたのち、反転して孫呉に相対せ。」
フィールド最北まで進攻していた魏軍が、
一転して進路を南にとります。
予想される呉軍の反撃を、
脳筋突撃ではなく、
堅実な「待ち伏せ」で、迎撃しようという判断でした。



しかしこの時、魏軍は、
ひとつの致命的なミスを犯してしまいます。

河畔のマップを横切る川には2つの橋があり、
後退する魏軍は、その防衛に、兵力を2分したのです。

直後、フィールド最北の城から、
連合の編成を終えた呉軍が飛び出しました。
そしてなんと、呉軍は、
その兵力のほぼ全てを7−5の橋に突入させたのです。
後に、「孫呉の脳筋返し」と呼ばれる全軍特攻でした。

迎え撃つ魏軍は約300人。
両軍の先鋒が7−5の橋を挟んで激しく火花を散らします。
押し切るか、守り通すか。
戦況を打開したのは、NPCでした。
殺到する魏軍の真っ只中に、
甘寧、そして呉の客将数人が、突如として湧いたのです。
魏軍が橋からわずかに後退した瞬間を、呉軍は逃しませんでした。
本隊から離れた呉軍の別働隊が、粘る魏軍300名の退路に
回りこみます。

魏軍は総崩れとなりました。
一時は呉軍を、人数で150人、
ポイントで4000点とリードしていたにも関わらず、
その優位を保てず、魏軍にとって制覇戦の初敗北は、
歴史的な逆転負けという苦い記憶になったのです。

合戦後、許昌での反省会は紛糾します。
突撃のあり方、そして、国としてのあり方を巡って、
会議は、深夜まで続きました。

それは、脳筋突撃が最後の輝きを見せる、
11日前のことでした。




いや〜馬さん、

はい。

脳筋突撃が、まさに鳴り物入りで三国制覇戦に
乗り込みましたね。

そうですね。

序盤の快進撃、これをどうご覧になりますか。

はい。まあ相手にしてみれば、
たとえ自分の側が人数に勝っているといっても、
魏の軍勢のほぼすべてが猛烈な勢いで
一カ所に突入してくる訳ですよね。
この、死をまったく恐れていないように見える、
退く気配が感じられないといった印象が、
心理的な面でまず相手を呑み込む事ができた、
これが非常に大きな要因だったと思いますね。


なるほど。
そして、その序盤に圧倒的な力を見せつけていた脳筋突撃が、
呉との一戦で足下を揺さぶられて、
その次ではついに負けてしまう訳ですが。

はい。
脳筋突撃は、その心理的な影響を除いて見ると、
各プレイヤーにかかっているバフは、
主に速度上昇系の技能ばかりだったんですね。
当時は、現在のように連合ごとの戦力配分、
そしてその中での、徒党ごとの役割分担などが
まだ定着していませんでしたから、
とくに陣形技能に関していえば、
「祝福」のほぼ一択だったと思います。
敵に攻撃を当てる、届かせる為には、
何よりも味方についていかないといけなかった訳です。
そういった理由から、
血の渇望や徒党速化を使用するプレイヤーは
実数としてかなり少数派のようでした。
つまりこうした速度のみに特化した戦術でしたので、
相手が脳筋突撃といった戦術に慣れて、
冷静に対処できるようになってくると、
瞬間火力や防御力の不足といった面が際立って来るんですね。
そしてそういった状況に対する不安、焦り、苛立ちが
脳筋突撃を繰り出す事ができた国家の根底の部分を
自ら傾かせてしまったんだと思います。


ありがとうございました。

さてこうして魏国は、制覇戦での初敗北を喫しまして、
国家としての先行きに大きな影がのしかかってまいりました。
三国制覇戦第一節、混迷を深めるその先で、
泰山魏国が見出した光明とは何だったんでしょうか。


さあ皆さん、いよいよ今日の「その時」が、やってまいります。


前頁  次頁


inserted by FC2 system